備忘録の備忘録

とにかく書くためのブログ。

ブックログ:モダンタイムス 2017/06/24

モダンタイムス(伊坂幸太郎)を読んで

 

国家はその存続そのものが目的で、国民のために存在しているわけではない。

 

私たちは日々自らの意思を持ち、自らの判断に則って生きているように見えるが、実は資本主義、国家という目に見えない巨大なシステムに規定され、その思惑通りに動く駒に過ぎないとも言える。

 

何かを目的として作られたシステムは、いつしか当初の目的を忘れ去り、そのシステムそのものの持続を目的として動くようになるのか。

 

システムから逃れようとすることそのものがシステムに組み込まれたものにすぎず、無限ループが続いていくのか。

 

巨大なシステムの中で目的を達するための事柄は細分化され、人は仕事をする。

その過程で「良心」は抜け落ちていく。

 

 

著者の意図の3割が伝われば上出来だ。

物語の中に出てくる作家はそう言う。

人は与えられた物語を真実として信じ込む。

額面通りに物事を受け取る。

 

だけど、額面通りに受け取った「真実」が本当に真実かなんて保証はない。

 

そして小説家は、人を駆り立てることなんてできない、

じわじわとその人の身に染み込んでいくようなことはできるかもしれないが、

という趣旨のことも書かれていた。

 

システムから脱する方法は目の前の何かに自分自身を捧げること。

大きな構造の中で、目の前の何かを選ぶことくらいはできる。

前に話した哲学科卒の大人がそう言っていた。

フランス哲学的には、と。

 

 

ブックログ:「0秒勉強術」

 

ブックログ 2017.06.18

勉強しよう、と思い、先立って読んだのが宇都出 雅巳さんが書いた0秒勉強術。

 

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一読しただけなのでうろ覚え(用語の間違いがあるかも)だが備忘録ということで。

 

・0秒勉強術について

・0秒読解

・0秒試験

・0秒勉強

 

 

0秒勉強術について

省略。

 

0秒読解

0秒読解は3つに分けられる。

①目次を読む

②タイトルなどを読む

③普通に(?)読む

 

その際に気をつけるべきポイントは3つ。

①精読しない

②まずはわかりやすいようなところを読めばいい

③ウッとなったら読み飛ばす

 

勉強をする際には「過去問」を使うといい。

過去問は見開きで回答まで乗っているものの方が使いやすい。

 

0秒試験

ここの要点は、「思い出す」という作業の有効性。

問いに対して回答をすぐに思い浮かべるかをいつも心に止めておく。

 

0秒勉強

勉強をしようと思った瞬間にすぐに勉強できるかどうかが非常に重要。

そのためには「なんの勉強をするのか」「勉強を通してどのような状態になっていたいのか」が具体的(今すぐ動けるレベルまで)でなければならないし、そうであるならばいつでもどんな隙間時間でも「思い出す」という上述の行為を通して勉強することができる。

 

学んだことに対して「思い出す」というフィードバックを返し続けることで、目標と現実のギャップを埋め続けていくことができる。

 

以上、ざっくりとしたブックログ。

 

以上を通して何をやるのか?

・構造解析の勉強をこの勉強法を通してまずは1週間やってみる。

TOEICに向けた勉強をこれを通してまずは1週間やってみる。

線形突破法

線形突破法

 

今の自分自身の世界の見方が何に立脚しているのかを、ふと冷静に考えてみると、意外にも「経験則」「周囲の当たり前レベル」がとても大きな影響力を持っていることに気づく。

 

そんな自分なりのスタンダードに慣れきって生活している中で、「非常識」な人と会うと、半ば強制的に「ふと冷静に」させられる。

 

今日はそんな日だった。

 

自らの中に根付く常識を突破する方法は、シンプルに自分の衝動的な願いに向き合い、そこに向けて無我夢中で走り出すことなのだろう。

潜在層と課題設定と 〜初稿2016.05.16〜

今日話を聞かせていただいた、とある事業の責任者の方が心震えるほどに素敵な人だったのでここに備忘録を記しておこうと思う。

 

何をしたいか?


「自分がないもやらなかったからといって特に何かが変わるわけではないけれど、何かをやるからには社会の役に立つ仕事をしたい」
「意識が向いた人にサービスを提供すること以上に、人の意識そのものを変える仕事をしたい」
時として(というかほぼ常に)、潜在層を対象にサービス展開しようとしたら、マネタイズの面でも、周囲を納得させる件でも、顕在層をターゲットとするときと比べて明らかに高い壁が立ちはだかる。

そんな時、「これはビジネスだから」「啓蒙はうまくいかないから」という理由でビジネスを通して潜在層の意識改革を果たせないか、という問いそのものを持つことをやめてしまうことが往々にして起こり得る。

だけど、もし本当に「人の意識を変える」ことを仕事としたいならば、自分の目に映る「厳しい現実」に押しつぶされず、問いを持ち深め続ける必要があるのではないか。

 

困難を乗り越える


「明確な課題設定」
「課題に対するストレートなアプローチ」
「真摯に、誠実に取り組み続ける。相手のスタンダードと自分たちのスタンダードの落とし所を見定め、期待値調整を精緻にし続けながら全く新しい事業を作っていく。」

何でもいい。何かを成し遂げたいならば、まずは「課題を明確にすること」が必要だ。
至極当然に聞こえるけれど、これを徹底するのは簡単ではない。

今銀座を歩いているのはなんのため?
図書館ではなくカフェに落ち着いたのはどうして?
いま狭い椅子に座って授業を受けているのはなんのため?

問いを持った瞬間に思考ははじまるし、問いの答えと自分自身の目的との間に何かしらのギャップを見出した瞬間それは課題になる。

その課題が他の人も抱えるものであるならばそれは”my issue”から”social issue”へと昇華されるし、social issueに昇華された瞬間それは人を巻き込む力を持った取り組みになる。

 


最後に


「自分の頭で考えて、工夫したことだけが自らの力となる」

線形と非線形 〜いかにして非線形的なポジションをとるか?〜 初稿2017/05/15

 


働き始めて3年目となる大学の先輩に、キャリア観にまつわる多くのインプットを50分という時間をもらいしてもらった。
そのインプットが冷めやらぬいまのうちに備忘録として記しておきたいと思う。
以下、先輩の言葉に対して自らがした解釈を交えて残していく。

 

世界をどう捉えるか?

「どう世界をとらえるか?」
世界の見方を示す名著

クリストファー・アレクサンダーによる「パターンランゲージ」と「都市はツリーではない」
・・・世界をツリー状に捉えた時、そこにdynamismは生まれなくなる。

 

思考のプロセス

例えばプロ棋士の羽生さんは、
直感→論理→大局観(決断)
というプロセスで思考するという。

ある盤面を前にして、そこで打ち得る手を網羅的に比較検討するわけではなく、直感的に筋が良さそうな2・3手に絞って論理立てをし、手を決断する。

また、「論理立て」の部分は確実にAIなどに任せられる領域で、これからの時代人に求められるのは「直感」(課題設定能力)と決断になる。

 

イノベーションとは


イノベーションとは、トレードオフを打ち破ることだ。
世界は二元論的に捉えられることが多いが、それは本当なのだろうか?
「現場」感を持てば持つほど「俯瞰」的な視野を持ちにくくなるのか?
「仕事」を取れば「家庭」はおざなりになりがちなのか?

「xy軸に線形の曲線を描き、どこに接線を引くか」という思考でキャリア選択をしようとしている。

だが、線形な思考の中で動こうとする限り、「化ける」ことはできないだろう。
では、どうやって線形を打破するのか?

線形の打破は、文学の上では例えば「アルケミスト」などで語られているが、それは教育などには落とし込まれていない。
「計画された偶発性」「シンクロニシティ


それを、自分自身のキャリアの上で非線形的なdynamismをもたらすとしたら、曲線から逃れる一点集中的な突破力が必要となり、それを支えるだけのエンジンが不可欠となる。

そのエンジンを知るのが、「自分を知る」という行為であり、世界に対するポジショニングの決め手となるのが「世界を動かすdynamismのレバレッジポイントを見定める」という極めて直感的、かつ知的な行為となるのではないだろうか。

 

 

 

雑記

 

今日おすすめされた書籍

パターンランゲージ

都市はツリーではない

「一度きりの人生」と日常と

ただの雑記。

「今を生きろ」とか、そういう言葉を最近耳にしたのでメモがてら。

 

「一度きりの人生」と日常と

 

「一度きりの人生、明日はないものとして生きろ」という趣旨の言葉はたまに聞くし、そんな言葉を聞くと自分の日常は甘えてるなあと思う。

 

じゃあ、最高の今日を生きるために必要なことは何なんだろうか。

もちろん、今最高の今日を生きることを決意し、最善を尽くすことはできる。

だけど、「最善」の選択肢に含まれている幾つかのオプションは、ほぼ確実に昨日までの自分自身の生き方がもたらしたものだ。

 

今目の前にあるオプションの中から、自分の心に正直になって遠慮せずに何かを掴みに行くという心構えも大事だけど、それそのものが現実との調和を顧みない行動なのだとしたら、それはあくまで”my issue”にすぎず、そして”my issue”の域を脱せないものは、ほぼ確実に”social issue”の一つとなってしまう。

 

だから、月並みだがここぞというチャンスの瞬間に、自分自身がそれに見合う人間であることがとても大切で、それを逃さないためにも日々目の前の短期的な快楽だけでなく先を見ながら今をひたむきに生きる必要があるのだろう。

 

本当にその日暮らし、その瞬間の快楽だけを考えて生きていけるのならばそれはそれでいいのだろうけれど、実際には短期的な快楽だけを追い求めて生きていくことに幸せを見出せないのが今の現実だ。

 

そうだとしたら、未来視点をも内包した「今」を最大限いいものにするという心持ちで生きていくほかはない。

 

グダグダと書き連ねたが、人生は基本的には穏やかな日常と、ここぞというチャンスと、2種類の瞬間のいずれかが積み重なって出来上がる。

 

単純に瞬間費用対効果を取るとしたら、時間は決して均等には流れない。

だから、瞬間費用対効果が最大の時機をものにするためにも、日常を積み重ねていくのがいいんだと思う。

 

そういうことだ。

ヘルスケア産業とグローバルに働くこと

先日、ヘルスケア業界でサービス運営をしている人や、国内のサービスの海外展開を手がけた人などとお話する機会があったので、そこでのお話をメモしておこうと思う。

 

 

ヘルスケア

少子高齢化に伴いますますのマーケット拡大が予測されているヘルスケア産業。

医療業界に大きな影響を持つ制度が「国民皆保険」だが、保険のあり方には大きなジレンマが存在する。

 

端的な表現は思い当たらないが、「アメリカ型」と「日本型」と分類して差し支えないだろうか。

日本では、ある治療行為に対して「○点」という形で点数が付けられ、それが保険に反映される。

例えば盲腸になって手術をしたとしよう。

同じ盲腸手術ならば、凄腕医師が切ろうが新米医師が切ろうが、「同質の治療」とみなされて同じ点数が付けられることになる。

そして、その「同質の原則」ともいうべきものが国民「皆」保険制度を支えているわけだ。

しかし現実問題、すべての医師の腕が均一なわけがない。

 

一方アメリカでは、医師の腕の差異が医療費の差異に直結する。

例えば盲腸になったとしても、誰に手術してもらうかで医療費が変わってくるわけだ。

当然腕が良いとされている医者ほど医療費は高騰することになる。

 

だが、この制度だと「国民全員(日本でも全員、ではないが・・・)」が同質の保険サービスを受けることはできなくなる。

なぜなら、同等の病気に対する治療費用が一定でなかったとしたら、国民全員にあまねく同じサポートを施すことができなくなり、「平等性」が失われてしまうからだ。

 

「同じ程度の盲腸」の患者Aと患者Bがいるとき、Aさんは凄腕医師の高額治療、Bさんは新米医師の低額治療を受けたとしたら、国民皆保険を平等な福祉サービスとして機能するのは極めて難しい。

 

そうとは言っても実際に医師の腕に差があるのは紛れもない事実で、そこに健全な競争原理が働くのは良い側面も大きいが、同時に盲腸手術1つで自己破産に陥ってしまうようなアメリカ人も恐ろしいほど多く存在しているというのもまた真実。

 

「平等」と「競争」という相反する概念の中で、人命に直結するヘルスケア分野でどのように向き合っていくのか。

それが今の社会が対峙している根本的な課題といえるだろう。

 

 

 

グローバルで働く

 

働くとは往々にして誰かと協業することだ(例外はあるけれど)

人が個人ではなくチームで働くとき、人と人の協力関係が極めて大事になる。

では、どうすれば良いチームが作れるのだろうか。

 

端的に言えば、チームメンバーがそれぞれのポテンシャルをお互いに引き出し、最大限発揮されている状態のチームは個の力では到底及ばないような成果を残し得るのではないか。

そして、そのためには互いに相手の価値観を知る、能力を知る、思いを知る、ということが不可欠になるのだと思う。

 

 

 

例えばそれらがいいチームの必要条件だとした時、同じ言語、似たバックグランドを持つ日本人を集めたチームでさえ満足のいくレベルでそれを成し遂げるのは簡単なことではない。

そして、グローバルで働くとは、それと同じことを母国語以外の言語で、時として想像も及ばなかったような価値観とぶつかり合いながら、なんとか互いに理解を深め、同じ課題に対して協力しながら立ち向かっていくことなんだという。

 

 

 

雑記

国家を語る人間になることについて。

国家社会を語る人間になるために本当に必要なことは何か?

目の前の事象について、「なぜ」というアンテナを張り、それを深ぼっていける人間ならばどの業界で働いていたとしても、その事業領域がいかに小さいものだとしても、肌感を持って自らの言葉で国家社会を語れるようになるのではないか。